伊東で日本初のヨーロッパ式帆船を建造、
三浦に領地と日本名「按針」を授かる

日本橋按針町の三浦按針屋敷跡の碑

平戸のオランダ商館

 この年、家康はアダムスの造船技術を見込んで、ヨーロッパ式帆船の建造を任せることになったのです。たしかにアダムスは、造船職人の出身です。しかし、それも今は昔。「造れる自信がない」と躊躇したのですが、「失敗してもかまわぬ」という家康の意を汲んで、船手頭=向井将監と部下の協力を得ながら、日本初の快挙に挑戦することになったのです。
 建造地に選ばれたのが伊東の松山河口でした。伊東は、天城の山林をひかえ、木材が豊富に入手できることから造船職人がたくさん住んでいました。アダムスはその伊東の地を選び地元の職人と一緒に、まず80トンの帆船の建造に成功。内航用とはいえ、家康は歓喜し、今度は120トンの外洋帆船の建造を命令し、これも成功させました。この出来事は、日本の造船史上で特筆すべき業績といわれています。
 アダムスの功績を讃えて家康は、三浦半島の逸見村(現在の神奈川県横須賀市西逸見町〕に、農民およそ90名を従える250石の領地と大小の刀まで与え、名前も「三浦按針」と命名しました。[青い目のサムライ]が誕生したのです。「三浦按針」の「三浦」はもちろん地名から。「按針」はパイロット、水先案内人や羅針盤の意味です。これからの日本の進むべき方向を示してくれる良きアドバイザー、といった期待も込めて考えたのでしょう。そして、日本人女性と結婚。ジョセフとスザンナという二人の子供をもうけました。
 その後、アダムス=三浦按針が建造した120トンの大型船は、日本の商人を乗せて大平洋を横断するなどの活躍をすることになり、近世に入った日本人が、各国との貿易を広げてゆく役割を果たしました。

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