アダムスを事情聴取するなかで
知識と人柄に惚れ込んだ家康
さて、大阪城で家康の取り調べを受けることになったアダムスらの前に立ちはだかったのは、ほかならぬヨーロッパ人でした。
すでに日本にはポルトガルからイエズス会の宜教師が渡来していて、長崎を拠点に布教活動を始めていましたが、当時のポルトガルとオランダは、宗教的にも世界貿易の面でも、激しく対立していたのです。
そのため、オランダからの船が漂着したことがポルトガル人にも伝わると、彼らはアダムスらを誹謗中傷し、即座に処刑することまで進言したそうです。
そんな敵対関係のあおりを受けて、アダムスらは、39日間も牢獄に閉じ込められてしまいました。
とはいえ、その頃の通訳といえばポルトガル人くらいでしたから、イエズス会の宣教師が家康との間に立って、アダムスから事情を聴取することになりました。
アダムスの話は、家康にとっても驚くことばかりでした。ヨーロッパで起きている戦争…武器と火薬…外洋に出られる船舶の建造…航海術…天文学…などなど。
さすがに幕府を開いた男です。アダムスの話を聞いてゆくうちに家康は、「この男は、勇気はもちろん、かなり進んだ知識と技術を持ち合わせている…」と冷静に察知したのです。こうして、家康はアダムスらを無罪にして保護することになったのですが、それには条件をしっかりと付けました。『リーフデ号』に残っている荷物、とりわけ大砲や小銃などの武器や弾薬を家康に渡すこと、さらに詳しく航海の経緯や、ヨーロッパの事情や文明について教えること、などです。
折しも1600年(慶長5年)は、家康が権力闘争に賭ける年でもありました。
この年の9月に起きた有名な関ヶ原の戦いで、家康側が勝利をおさめ、諸国を統一することになったのですが、家康がこの戦いを有利に進められたのは、『リーフデ号』の武器と弾薬があったからこそ、といっても過言ではないようです。
その後の1603年(慶長8年)、征夷大将軍となった家康は、アダムスを江戸の日本橋に住まわせ、江戸城に通わせながら、幕府の幹部たちに航海術や造船技術、天文学や砲術、地理学や数学などを教授する[顧問]として、特別待遇の身分を与えました。アダムスの部下の船員たちも、江戸に住めることになり、生活費も支給されました。しかし彼らの全員はやがて帰国。アダムスも帰国を家康に強く申し出たものの、キッパリと断られてしまいます。それだけ、家康はアダムスの人柄も気に入り、逸材とみたからにほかなりません。それが、1604年(慶長9年)の[ヨーロッパ式帆船建造命令]となってあらわれました。