幕府の外国人外交官として
オランダやイギリスとの仲介役も

アダムスが活躍した平戸港アダムスが活躍した平戸港

英国領事館跡の碑英国領事館跡の碑

 1605年(慶長10年)、将軍職を秀忠に譲り駿府に住むようになった家康の[時代を見据える目]は確かでした。
 三浦按針が漂着して9年後の1609年(慶長14年)、オランダ船2隻が長崎の平戸に入港。続いてイギリスも、自国出身のアダムスという男が日本の将軍から高い評価を受けていることを知ったこともあり、1613年(慶長18年)には、『クローブ号』を平戸に入港させました。いよいよ日本も、世界に門戸をひらいてゆく時代になったのです。両国とも、日本との平和的な交易を望んでやってきたわけですが、この時に欠かせなかったのが按針でした。言葉の問題はもちろん、ヨーロッパの商習慣に精通しているのは彼だけだったからです。
 按針は、平戸~家康のいる駿府~そして江戸城、などを東奔西走しながら、公正な国際人として、両国と幕府との仲介役となり、様々な交渉ごとを巧みにまとめてゆきました。しかも、両国の商館が平戸に開設され、以後、長崎が諸外国との交流の窓口になったのです。これも按針がいたからこそ、ともいえます。彼は[徳川幕府の外国人外交官]のような重要な役割を果たした、日本とヨーロッパの外交史上、特異な業績を残した人物でもあるのです。
 商館が開設された後も、按針はみずからイギリス商館に務めたり、また、『シー・アドベンチャー号』という船に日本人と一緒に乗り込み、琉球(現在の沖縄県)やシャム(現在のタイ)との交易を始めるなどの活躍が続きました。琉球からは、甘藷や泡盛などを持ち帰り、甘藷は平戸の商館で栽培も成功。これをきっかけに、甘藷栽培が全国に普及してゆきました。
 しかし時代は、按針が考える日本の将来像とは逆方向へ転換してしまいます。家康が他界すると、秀忠の外国人への態度はしだいに硬化し、キリスト教禁止令を出すなど、イギリスもオランダも日本での貿易はしだいに縮小されていったのです。
 この、理解しがたい政策転換は、按針を深く絶望させたことはいうまでもありません。それでも彼は、「諸国の交流が幸福と平和をもたらす」という信念を変えず、1619年(元和5年)には日本人乗組員を従えて、中国へ渡航します。
 ところが、帰国後に待っていたのは体調の悪化と病魔でした。1620年(元和6年)の春、海と異国で心身を鍛えた男も57歳での病には勝てず、平戸で人生の幕を閉じたのでした。
 按針が亡くなってその後、平戸の商館は閉鎖。幕府は第一次閉鎖国令を出してしまい、残念なことに日本は孤立国へと転じていったのです。

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