船の街に育ち海に生きてきた
冒険心あふれるイギリスの航海長

セントメアリー教会アダムスが洗礼を受けた
セントメアリー教会

ウィリアム・アダムス像ウィリアム・アダムス像 重岡建治氏制作

 [運命の男]アダムスは、1564年にイギリスのロンドンに近いケント州ジリンガムで生まれました。この街は1998年にロチェスター市と合併して、現在はメドウェイ市となっていますが、古代ローマ人が占有していた時代から、漁港や貿易港として栄え、16世紀からは造船業も盛んになっていった港街です。
 そんな船と海の街に生まれ育ったアダムスは、12歳で父を亡くしたこともあり、少年の頃からロンドンの造船所に弟子入り。造船技術をはじめ、天文学や航海術も学んでゆきました。
 おそらくアダムスは、[海の仕事]が天職だったのでしょう。
 海軍に入った後の1588年のことです。スペインの無敵艦隊がイギリス本土を攻撃しようとした時、アダムスは20代なかばでイギリス艦隊の食糧や弾薬の輸送艦の艦長に抜擢されるほどでした。
 その後、ロンドンの女性と結婚して二児の父になり、貿易会社に勤めたりして平凡な毎日を過ごしましたが、やはり冒険心は捨てきれず、シベリアから東洋へ至る北東航路の探検隊に参加するなど、海の男としての本領を発揮してゆきます。
 1500年代の末は、ヨーロッパ各国が、新大陸やアジアへの交易を活発化させようと、しきりに遠征隊をを派遣するなど、大航海時代が到来していました。
 そんな時代の雰囲気に胸を踊らせたアダムスは、1598年にオランダの東洋遠征隊に志願。5隻からなる船隊の主任航海長に選ばれることになったのです。当時のイギリスは、スペインやポルトガルとは敵対していましたが、オランダとは友好的で、イギリス人がオランダの船艦のリーダーになることは不思議ではありませんでした。
 その年の6月23日、オランダのロッテルダムを出航したアダムスらの船隊は、アフリカのギニア、そして南米南端のマゼラン海峡を通過し、サンタマリア島を経て、大平洋を横断して東インドに向かうつもりだったのですが、出港の時期がズレてしまったため、悪天候に見舞われてしまいます。熱風や寒波に襲われ、海は荒れ狂い、危険そのものの航海となったのです。
 5隻の船は1隻…また1隻…と難破したり…迷走の果てに行方不明となったり…。難を乗り越えた船も食糧はしだいに底をつき、船具をかじったり、ペンギンの肉を食べながら飢えをしのぐ、地獄絵そのものでした。船員たちは病に倒れ、バタバタと死んでゆきました。
 最後まで残った船が、アダムスが最初に乗り込んでいた旗艦『ホ-プ号』と、『リ-フデ号』でしたが、女神の導きがあったのか、アダムスは途中で『リ-フデ号』に乗り換え、『ホ-プ号』はその後、消息不明となってしまいます。
 そして、この最後の1隻が、4月19日に九州へ漂着したのでした。出港からおよそ1年と10ヵ月、苦難と絶望の航海は日本で終わりました。ちなみに、『デ・リーフデ号』とは『慈愛号』との意味だそうです。

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