地獄の遠征航海の果てに・・・
一隻の船は九州・豊後に漂着
いまからおよそ400年前の1600年(慶長5年)4月のこと。日本では見かけない木造帆船が難破して、九州豊後の臼杵湾に漂着しました。現在の大分県臼杵市佐志生の黒島海岸付近です。
村人たちが、その船の救出に出かけ、臼杵湾まで曳航してみると、船には24名の乗組員がいて、全員が外国人。しかも、ほとんどの船員が栄養失調と病気で歩ける状態ではなく、船上を這い回るのがやっと。なんとか立ち上がれるのは6名、といった悲惨な状態で、たちまち村中は大騒ぎとなりました。凄まじい地獄のような航海を続けてきたことが想像できました。
しかし、その難破したオランダ船『デ・リーフデ号』の船海長こそが、その後に誕生する徳川幕府に大きな影響を与えることになろうとは想像できませんでした。
それでも村人たちは、体格も大きく、目や髪の毛も違う[異国人]の、心身共に傷ついた船員たちに食べ物を与えたり、病気の手当てをしたり、とずいぶんと親切にしたようです。
村人たちが、看病しても船員たちが次々と死んでゆくなか、地元の城主は、豊臣政権の最高顧問である五大老の筆頭だった徳川家康のもとへ使者を送りました。
その結果、『リーフデ号』の代表者が大阪城で取り調べを受けることになるのですが、クワケルナック船長は病床にあったため、航海長のウィリアム・アダムスが、船長代理として出頭することになったのです。
この運命のいたずらが、徳川家康によってアダムスの人格や知識や技量が高く評価されることになり、幕府の[外交顧問]として厚遇される運命になろうとは、彼自身思いもよりませんでした。
大航海時代の航路